昭和45年03月31日 朝の御理解



 御神訓 一、「慢心が大けがのもとなり。」
     一、「用心せよ、わが心の鬼がわが身を責めるぞ。」

 自分が気が付かない間に大けがの元が出来ていきよる。慢心しておるからです。まぁ私なんかが特に慢心気が非常に強いですから、よっぽど心しておきませんと慢心が出ます。まぁ、「慢心と安心は紙一重」と仰るのですから、いかにも自分はおかげを頂いておるなぁと安心しておる。よくよくその自分が安心を頂いておると言う事を検討してみると、それが慢心の場合があります。本当に慢心と安心は紙一重であります。
 けれどもまた実は慢心が出る位に、のおかげを頂きたいともまた思います。ね。まぁ例えて言うと子供が、まぁ学校がよう出来ると致しましょうか。お宅のお子さんはとてもよう出来なさるそうですねと。だけで済みゃあええけれども、それが例えて今度はまたその褒められると良い気になって、ああだこうだとまたその自慢話をする。ね。本当にそのうそういう時に例えば合楽辺り、この大変な御ヒレイだそうですねと。
 そういう風な例えば褒め言葉をもってされる時にもう愈々こう穴があれば入りたい様な思いのする様な一つおかげを頂きたい。また事実本当にその内容という物を思うたら、自慢の出来る所は一つもないのですけれども。又それに輪をかけた様な事を言おうと思うと、思おうとしたり言うたりして気がつく事がある。ですから矢張りなら子供でも出来んよりも出来る程しのおかげを頂きたい。
 人に自慢の一つも出来る位なおかげを子供が頂いてくれる事は有難い。御ヒレイでも本当に御ヒレイを受けたい。けれどもそういう所をですね、私共は信心でいかなければいけないと思う。それには矢張りその遠大なと言うか大きいと言うかね、良いその願いを持つと云う事であればいつもがいまなかですから、ね。教祖は今半という言葉をお使いなっておられますわね。いつでもが今半。
 これで済んだとかこれで良いと云う事はない。もうおかげもこの位頂いたら良いと言う事はない。どんなにおかげ頂いておっても、今が半分だと言われる。今が半ばだとこう言われるね。ですからまぁだまぁだと言う様なその心がありますから、慢心の気が起こらんで済むようなおかげが頂けると思うです。教祖様はこう言う事を言うておられますね。これは信心させて頂く者の一つ心得と言う事でございましょうね。
 「欲と派手と自慢とを心得い」とこう言われる。ね。欲と派手派手とは派手と書いてありますけれどもそれに、注が入れてありますのは華美(かび)と書いてありますから華や、派手な事、派手な事をすると言う事。いや身分不相応の事をまぁするからでしょうね。まぁ今日ここん所を頂いてから本当にこの「慢心は大けがの元なり」と言う様な御教えなんかは。本当に合楽の為に頂いておる様な感じがする。
 私が大体が人間が派手に出来てますからどうしても派手になる。根が商売人ですからね。まぁ色々にまぁ合楽は、大坪さんはなかなか商売人で、宣伝がうまいからと言った様な事を、まぁ悪口を聞きます。実を言うと私は一つも宣伝はしない積りなんですけれどもね、やっぱり派手であると言う事は、矢張りその内容は宣伝ではないかとこう思いますですねぇ。これは本当に心がけなければなけない事だなぁとこう(笑)。
 本当にですからそれは、脇から見たらどの様に派手に見えましてもです、その内容に有難いなぁ、勿体無いなぁと本当にこの様なおかげを頂いて恐れ多い事だと言う様なものが私は一杯あれば間違いがないと思いますねぇ。そういうものが段々薄うなってきて、そして派手の方ばかりが先立つ様になった時にはやっぱり、これはもう大怪我の元を作っていきよるんだとこう思います。
 所がその辺の所にね、大変そのまぁ、微妙なものがありましてね。次にその「用心せよ、わが心の鬼がわが身を責めるぞ。」と仰るがね。わが心の鬼が、わが身を責めるぞいう様な事がね、無くなって来る。それがまた怖い。まぁだ良心の呵責と言った様なものがある間はまだまだ。ね。けれどもその、わが心の鬼がわが身を責めておる事すらも、気が付かんでおる。
 または自分で勝手に理屈をつけては、いわば安心の上にあぐらをかいておると。そういう場合が私は安心と慢心が紙一重と言う事になるのじゃないだろうかという風に頂いてまいりますと、信心とは成程薄氷の上を渡るようなものだなと愈々思わせて貰いますねぇ。またの御教えにも「神の中を分けて通る、通りおるようなものじゃ」とこう仰る。神様の、神様の中を分けて通るようなものと。
 そういう実感がある時には私は慢心は出ようがないでしょうけれどもね。けがの元を作るような事もないでしょうけれども。中々そこでまぁ私達は本当に薄氷の上を渡るようなぁ、思いで用心用心せよと仰る所辺りを、用心していかなければなりません。そこで矢張り心掛けとしてね、例えばあのう華美にならないように派手にならないように、心がけさせて頂くというわけですけれども。
 そこでこれは私達、私の様なまぁそういう派手な心の強い者が、いつも心させて頂かなければならない事は、自分で求めようとは思うまいと。ね。又はねつまだって取るような事はするまいと。ね。背伸びしなければならない。いうならば贅沢はしてはならないという風にまぁ自分の心の中にいつも一つの、心がけというものを矢張りかけておかなければならん。私共はそう言う様な生き方をもう止めたらもう本当にやっぱり人間が派手に出来とりますから、派手って言うかね。
 その慢心気が強いですからそう言う事になってくると思うんですね。例えば私が本当にこの自分で自分の物の、なら布切れ布一寸買わないと、下駄一足買わないという様な事を心に、まぁ誓わせて頂いておる事やらは本当に、良い一つのブレーキにいつもなっておると自分で思います。ね。だからそういう例えば思いでですね。そういう思いで自分という者を自制してまいりますと言う事がね、大事じゃないかとこう思います。
 所が神様はそのような修行させて頂きますと、例えば只今の事を挙げりゃもうそれこそ勿体無い様なですねぇ、何十万もする様な着物がお供えに来たり致します、ね。勿論そういう物を着る資格があるとも思いませんけれどもです。本当にそこにあらわれる、思いが湧いてくるのは勿体無い事だと言う事になります。ね。そう言う様に心を照らして頂いておっても何処かの端から隅からもう慢心が出来ておりますもんねぇ。
 まぁそれでおかげを頂いて、まぁ成程それでまっかくそのまぁ自分にまぁいうならばつり合うた物が集まってくるのですから、まぁ自分で買うたのじゃないから、自分で求めたのじゃないから良いと。それでなら安心しておっては、それが慢心のその内容が慢心になっておる様な場合もありますから。心がけなければならないなという事を今日私、欲と華美という事をね。華美、派手と言うておられます。そのから自分で気付かせて頂く事があるんです。私はもう布一寸買わんけん見てご覧なさい。
 何十万もするごたる着物が集まってくる。是あんたもう十万からする是あんた十五万もするげなよと(笑)。成程私はそのう自分で求めて買わないという所に一つのブレーキがかけられておるけれどもです、そう言うて自慢をしておる所は是はまぁ慎まなければいけないなって今日又改めて解らせて頂いた。ね。もう本当にその辺の所は心がけなきゃならん所ですねぇ。そこでまぁ私は反物のお供えを頂きますとね、もう是は私に着る資格があると言った様な風には簡単には、簡単には思わない事にしています。
 これは神様のどういう御都合があるやら、分からんから念には念を入れるわけです。それで誰かそれを、縫わせて下さいと言う様な人達が出来てくる。それを縫わせて頂きましょうという人達が、出来てくるでなからなければ、その着物を手を通すまいという風に考えたら、まぁ何段構えにもしなければならない程しに、実を言うたら、私はおかげを受けておりますからね。
 一生懸命にそれこそ汗水を流して、頂上を極めようとして山に登る時にはなかなか慢心は起こるもんじゃないのですけれども、頂上を極めてそして向こうに下りる、下りがけが危ないのです。そこでんなら皆さんだってどうでも今申しますようにね、本当に慢心が出る位なおかげを頂いて欲しいと思うのです。ね。もうそれこそいうならば派手なおかげも頂いてもらいたいと思うのです。ね。
 そこでんなら現在皆さんの場合にですね、まだここでそういうなら派手なおかげを受けておられるという方はない。ですから受けられた、受けた時の私は心構えというか信心というか。そういうものがしっかり出来とかなければならんという事になります。ようも私共、あのいわば、まだ山登りの最中と言うか、ならまたはこれは、ならげんに、実際私がもう頂上を極めて下り坂かと言うとですね。そうじゃないです。
 私は始めに申しました様に、まぁだ遠大な所に願い望みというものを置いてあるからね、まぁだいうならば上り坂の所ですけれどもです、またある意味においてはですね。なるほど合楽の御ヒレイというものは、矢張り大したもんだと人から言われる位なおかげもやはり受けておるですからね。まぁその辺の所はまぁあれこれ思うて聞いて頂かなきゃなりません。こういう場合はもう頂上を極めて下に下りておる時だろうか。
 こういう時には私がまだ一生懸命登っておる時だろうか。いう風にもまぁ色々に分からなきゃなりませんけれどね。それで私共がその本当にまぁいうなら難儀の時代。ね。まぁ私が福岡の、まぁ修行中の時分に、もう一番最後の所というのは、まぁ四畳半丸出しのそこには畳も敷いてはございませんでした。破れた様なござやらまぁ妙なフエルトの様な、引き揚げ者に対して、頂いておった物やらが、こうやってまぁ敷いてやって、その隅に神様をお奉りしてあると。
 雨が降りゃあもうだだ漏りと言った様なお家でした。それでもやっぱり住めば都でですねぇ、まぁそれを本当に有難いと思うて、住まわせて頂きましたんですけれどもね。その時に、私は神様にいっつもお願いをさせて頂いた事が、私のこの願いが成就致しますなら、ね。住まいの事などはね、これ以上の物を頂こうとは思いませんと言う事でした。私の願い、ね、私が大きな願いを持ってこの願いが成就するなら、ね。
 今では小屋の様な家に住んでおるけれどもです、ね。これが立派なお家に住もうなどとは思いませんでした。ね。例えばあぁ私のいわば粥食時代というね、お粥さん時代の時でもです。もうそれこそ最低の最低の食生活時代に、ね。これ以上の物を求めて頂こうとは思いませんと言う事。ですからね私はその食べ物をね、そういう例えば思い方、例えて言うとね。もう椛目に帰って人がどんどん助かる様なってからでも、私はまぁだお風呂入りませんでした。お水を毎朝晩頂きますから。
 とてもとてもとても一生風呂だん入ろうと思いませんでしたもん。今から考えてみると不思議な事でした。一つ不思議でたまらない事はね、一生履物を買いませんなんてどうして神様にお約束したじゃろうかと自分で思う位です。ん。裸足でばし歩くつもりじゃったじゃろうかと。けれども矢張りそういう願いが一途の時ですからそれがね、そういう願いを立てさせて頂いて、んなら今日までそれを実行しておると言う事です私は。ね。そこには勿論まぁおかげ話でいうならば。
 なら履物に不自由した事のない、それこそ洋服を着せて頂く様になったら、靴は今でも何足ありましょうか。それこそ夏は夏秋は秋という風にちゃっとそのお供えを頂いて、も頂いておりますし。履物も限りなくまぁだ何足も何足も、降ろさんで履かんであるのが、有ります様に。是は私と私も家内も一緒に修行させて頂いた事で御座いますけれどもね。ですからなら段々おかげを頂いて参りましてからなら、部屋でもですねここは先生の部屋だというて、まぁそこにその追いやられる様にしなければ。
 あそこを自分の部屋にようしきりません。あの椛目の時代に初めて、あのう年寄りが居りました。あの部屋が出来た時なんかは。出来たんですけれども、私はあの部屋に入ろうとも、あそこで休もうとも思わなかった。こちらの小さいタンスの左側に休んどりましたけれどもね。秋永先生から「折角出来たもんば、親先生そげん行きなさらんでどうするか」と言うて、それこそまぁ追いやられる様にして、まぁあそこに住みました。ならここへ参りましてからでも。
 一番奥の間を私共の居室として、ちゃんとこうして下さったんですから。まぁあそこにやらして頂いておりますけれども。いつも私のいわゆる脳裏と言うかね、心の底にありますものはです、福岡のあの時代に、これより以上の物を求めないという心です。というてなら。福岡の時代にあった様な掘っ立て小屋をわざわざここへ建ててもろうてそん中に住むという事は出来ませんから(笑)ね。ただ自分から求めて住もうとは思わないという事です。ですからこれはもう絶対ですけれども。
 ならもう障子が破れておれば破れとるなり。だから私の部屋だけは人に私させません。そりゃあ気が付いてして下さりゃあします。だから障子がこの頃からも随分こう破れとりましたから。是を他の者に言いません。家内にお前は気にならんか、お前障子位貼らんかと言うて家内に話します。それはもうこれ以上の物を求めようと思うていない印がね、まぁその様な事になって来る訳で御座いますけれどもね。自分という者をですね。いうならば窮屈な所にいつも置いておくという事。ね。
 そこにですね私は慢心が出らんで済むおかげが受けられる様に思いますし、また用心せよ心の鬼がいわゆる我が身を、所謂その良心の呵責に苦しむと言った事もない。けれどももういっちょそれを掘り下げてみますとです、その様にブレーキをいつもかけておる様でありましても。どこの隅からか矢張り慢心が顔を出しておる事を気が付いたり、ね。成程良心の呵責に苛まれる様な事はないけれどもね、ね。
 良心の呵責に苛まれる事のない位にぼんやりして居る様な自分を、矢張り追及していかなければならないと言う事を思います。ね。ですから今皆さんの場合ですね、いうなら皆さんそれこそ只今修行中と。先日から、大和さんが色々とお知らせを頂いておられます。やっぱり、そういうようなおかげを受けたあかつきに、ね。おかげを落とさんですむおかげを頂く為に、大和さん今がそれこそ只今修行中という看板を掛けておる様な時ですよと言うてお話した事ですけれども。その修行中にです、ね。
 私はおかげを頂いてもおかげを落とさんですむだけの信心が出来とらなければならないという事であります。ね。難儀な時をね忘れてしまう。そしてそれがついつい分からん、いわゆる華美になり派手になり。ね。と言う事になります。これは取り分け私がそういう慢心気が強く又はそのう、まぁとても私がいくら地味だと自分に人に言うても人はそれを承知しません。もう秋永先生もあんたは派手すぎるって(笑)私がいつも言うんです。もう親先生やらげん(笑)ね。
 とにかくそれの親分じゃけんまだ(笑)という風に言われるんですけど、本当よく考えてみるとそういうものがあるんです、ね。ですから大抵ブレーキをかけとかんと、矢張り下り坂をだだ走りする様な事になって、大怪我をしなければならない様な元を作ります。ね。信心とは本当にどんなにおかげを頂きましてもですね、そういう教えをいつも心に掛けさせて頂きますから、まぁまぁおかげで怪我をせんですむ、おかげを頂いておりますけれども、ね。心がけを悪く致しますとですね。
 どう言う事になるか分かりません。ですからとにかく慢心が出る位なおかげを頂きたい。出来ないよりもやはり出来た方が良い。だから出来た時にです、ね。それが自分の手の届かん所にまで手を出そうとしたり、ブレーキをかける事を忘れたりしておかげを、折角のおかげを落としてしまう事のない様に、これはいつもいつも自分の心に、それこそ懸け守りの様に掛けておかなければならない事だとこう思います。ね。どうでも一つおかげは受けて欲しい。受けて貰わねばならん。
 だから受けたあかつきにもです、ね。例えてまぁ私がたどらせて頂いた様に、例え受けましてもね。こう言う事は致しませんと。ね。是だけはお誓いしますと言った様なね、私は自分を窮屈の中に押し込んでいく。いわば修行を今こそ身に付けておかなければならん時じゃなかろうかと思います、ね。とても私が一生風呂に入ろうなんて、それこそ思いもしませんでしたけれども、ね。石鹸のお供えがあるタオルのお供えがどんどんある。おかしいな風呂にも入らんとに。
 どうして布巾やらタオルの、お供えが来るじゃろうかと思いよったら。とうとう終いには風呂桶のお供えがきましたからね。そしてもうどうでもこうでも、矢張り風呂に入れさせようとする働きがある時に、お風呂に入らせて頂いて、それこそ風呂桶の縁にしがみついてから、もうそれこそ声を上げて泣きました。風呂に入られるなんて、夢のごたる事でしたから。それが今だとどうでしょう。大きなお風呂に、ちょっとひねれば、熱いのがジャーと出る様な、お風呂に毎日一番風呂に入らせて頂いて。
 ああ極楽極楽と言った様な事に、なっていきよる自分を思うんです。ね。本当に強く反省させて頂いて、あの時分の事を本当に思い返さなければいけないなと。今日また改めて私はそれを感じました。ですからね、そうしてはならんこうしてはならんというのじゃない、ね。何十万もする着物を着ちゃならんというのではない。そういう段々おかげが頂ける様にならにゃいかん。何十万の着物を着る事が派手と言う事じゃあない。それはその人の内容に釣り合うた物がね。
 身に付けていけ食べていけ、まぁ食べる事または着る事だけではありませんけれども、一切がそういうものだと言う事をね、しっかり心してそしてそういう。おかげの受けられる事はもう絶対のものとして、ね。私は確信させてもろうて、それをおかげを受けた暁にと、私それを落とさんですむ様な稽古を、今こそしっかりしとかなければならんと言う事なんです。ね。今度こう言う事は初めて頂きましたですねぇ。欲とかまぁ自慢と言う様な事やらは、まぁ頂いたように思いますけれども。
 「欲と派手と自慢とを心得い」とこういう。ね。だから例えばどうでもこう何かね、私に着物なら着物のお供えをしたい人がある時にですよ。先生どちらかをさせて頂きたいから。取って下さいと言う様な時にはね、やっぱり是は地味な方から取らなければいけんのじゃないかと。その位な心掛けは必要ですよね。もうとにかく自分好みにでも愈々なりよるとやり損なう様ですねぇ。信心はそうなって参りますと中々難しい。けれどもそれは心得心掛けの中に、もう染み込んでおるおかげを頂かせてもろうてですね。
 用心せよ我が心の鬼が我が身をせめる」と仰る。ちょっと間違うた事をすれば自分の心の中に、前には進まれん程しのものを感じれれる位な信心を頂きたい。けれどもそこん所を通り抜けるとです、ね。そういう我が身をせめる事すらが無くなる様な所を、私は「安心と慢心は紙一重」と言うて下さるのじゃなかろうかと思う。だから自分が頂いておる、安心と思うておる安心は、果たして本当なものだろうかといつも検討する必要がある、あるように思いますですねぇ。そこでそこに思わせてもらうんですねぇ。
 もうとにかくそのうほんならええですか。皆さんが百万長者に皆さん皆なってもらわにゃならん。まぁ今時百万長者じゃつまらんけん億万長者でしょうかね。その億万長者になった時です、ね。それがね自分の働きでとか、自分の物だとかいう様な思いがする時には、愈々大怪我の始まりです。ね。俺がこれは働き出したとか、これは自分の物とか金とかと、ね。どんな例えばどんな場合でもです、ね。それを神様の御物としてか、または神様の御預かり物としてそれを丁重なそういう見方をさせて頂く。
 おかげを頂かんとやり損なうと私は思います。簡単に申しますとですね。「慢心が大怪我の元なり。」あぁそうだそうだと頂いただけではいけません。ね。「用心せよわが心の鬼がわが身を責める」と仰る事。ね。「火の車作る大工はおらねども己が作りて己が乗るなり」といった様な、お説教の中にそんな話がありますですねぇ。本当に折角のおかげを台無しにする様な事のないようにしなければならん。それをおかげを頂く前にしっかりほぞを固めておかなければならんと言う事ですよね。
   どうぞ。